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ファンという「バロメーター」②-少年ハリウッド第26話-

先日は、アイドルを「育てる」ということについて、アイドルゲームを題材にお話ししました。アイドルを育てたい。だけれども、それを必ずアイドルが育つ方法というのは現実の世界にはありません。もちろん、育てるということ自体もこれまた楽しいので、これはこれでアイドルゲームの魅力なんですよね。ということで、今回は予告通り、では「少年ハリウッド」というのはどういったアイドル作品だったのかについて考察して行きたいと思います。

前回言及したように、少ハリはゲームとは無縁の存在です。ソーシャルゲームも展開していませんし、もちろんハードゲームが原作でもありません。少ハリは橋口いくよ先生が書かれていた小説が原作で、メディア展開としては「小説×アニメ×ぜんハリ*1」を掲げています。こういった展開は、少なくとも昨今のアイドルアニメではかなり珍しいです。そもそも2次元のアイドルと3次元のアイドルを共存させるというのがかなりチャレンジングな試みです*2

ゲームと無縁、という点では全く無縁ではありませんがWUGもこちらの部類です。ですので少ハリとWUGはPとか春ちゃんみたいな「主観」になる存在がいないんですけれども、それ以上に「売れない」んですよね。ちゃんと言うと「売れるための方法が確立されてない」んです。

主観がないという点ではラブライブとかアイカツもそうなるんですけど、どちらかというと「売れる」というより「成長する」という方に主眼が置かれていて、「成長すれば売れる」みたいな図式が根底にはあるように思います。

でも少ハリもWUGも売れないんですよね。WUGは最初社長が逃げてダメなマネジがアヤしいプロデューサー*3を連れてきてと当初は全然売れませんでした。というか当初以降も大ヒットというわけにはいかず地道な仕事をやるしかなくて、最終的にはI1の作曲家がWUGに興味を持つことで、WUG自体は光明に一歩近づくことになりました。ここまでの道がものすごく長い。大変です。「成長すれば売れる」んじゃなくて「成長しなくては売れない」世界です。
少ハリはというと、15年前に大ヒットした少年ハリウッドを引き継いだ新生少年ハリウッドの物語なのですが、これまた売れない。1期まるまる売れてません。2期もバカ売れしてるわけでは決してありません。少ハリの転機は路上アカペラ自己紹介や地道な広報活動というのもあるのですが、初代少年ハリウッドの先輩からの口添え(バーター)によるところも非常に多いです。ダンスを頑張っても歌を頑張っても、先輩の口添えがなければ仕事ももらえないのです。WUGの世界でも、少ハリの世界でも「必ず売れる方程式」なんてもものは存在してません。ここは結構大きな違いかなと思います。

 これってどういうことなんでしょう。私は、「ファンはバロメーターじゃない」っていう風に思います。自分を擁護したい、という気持ちも正直ありますが、それでも、きっと「ファンになってもらう」って思ってるほど簡単なことではないんです。
WUGでは熱狂的なWUGファンの集団(といっても4,5人ほど)がいます。彼らはファミレスでWUGのステージを盛り上げるにはどうすればいいのかいつも会議しているんですけれども、周りからは白い目で見られます。毎日劇場公演をやっても、ファンの数が爆発的に増えるということはありませんし、一気にトップアイドルになるわけでもありません。「売れる」=「ファンが増える」と考えれば、「売れる」を達成するということがどれだけ大変なのかわかります。
少年ハリウッドのファンはもっと素直でもっと複雑なのかもしれません。私が呆然とした台詞が第21話「神は自らの言葉で語るのか」でのシャチョウの台詞です。

 

「アイドルってね、あるものもないものも全てを求められてしまう存在なのですよ。恋人になってほしい。家族になってほしい。慰めてほしい。元気にしてほしい。かっこよくあってほしい。かわいくあってほしい。素を見せてほしい。見せないでほしい。そばにいてほしい。遠い存在であってほしい。自分だけのもので、みんなのもの。もう、全てのつじつまが合わなくなってくるほど、求められて求められて、求められる存在なんです。」

 

私はこのセリフを聞いた時に、もう穴に引きこもってしまいたくなるほどの衝撃で、アイドルオタクって存在の業の深さに軽い絶望を覚えました。これは私的には本当にその通りで、特に素を見せてほしい、見せないでほしいとか自分だけのものでみんなのものとかあー普段からこういうこと思っとりますわーって感じです。多分このセリフでアイドルオタがアイドルに求めてることの半分以上はカバーできてると思います。「ファンになる」ってむちゃくちゃ簡単なように見えて、むちゃくちゃエネルギーを求められることだと実感しました。そうなんです。ファンってめちゃくちゃ面倒くさいんです。もう自分勝手に理想のアイドルの姿を作り上げるんです。いや、もちろん全員ではないし程度の差はありますが、少なくともファンになるということにはエゴイスティックな領域が含まれるとは思います。そんな面倒くさいファンをバロメーターのように数字で測るだけで終わらせることは、現実の世界ではできません。なぜならアイドルを選んでいるのはファン自身だからです。アイドルに言われてファンになっているわけではありません。こんな面倒くさいファンでも、ファンになってもらわなければ決してアイドルが売れることはできないのです。

ファンは増やすのは大変ですが、減るのは案外一瞬です。そして何よりもファンがファンであり続けることが最も大変です。アイドルはファンがいなければ輝くことはできませんし、ファンはアイドルがいなければ生きていけません(少し誇張しました)。つまり、持ちつ持たれつの関係なのです。当たり前のことを言ってると思われるかもしれませんが、実はファンとアイドルの関係を考えた時に一番難しいことなんじゃないかなと思います。

少ハリ26話は恐らく視聴者念願のライブを1話まるまる使って描いてくれるという時点で最高だったのですが、最後に行われたサプライズの演出。実際のステージでこんな映像が出たらと思うと、震えと涙が止まりませんでした。きっと古参ファンの方は膝から崩れ落ちていることでしょう。またそこでのマッキーとトミーの流した清らかな涙。本当に、理屈とか感情とかを超えて、もうそういうんじゃない、身体の空っぽな部分から湧き出てきたかのような涙がすごすぎました。ファンあっての少年ハリウッド。そして、少年ハリウッドあってのファン。少ハリは、ファンをバロメーターとして扱うのでなく、迎合しすぎることもなく、描いていました。そこで大きな役割を買っていたのがシュンやキラだと思います。アイドルをビジネスと考え、ファンにもビジネスとして対応する。ここではファンはビジネスライクな顧客です。それでも「ファンあっての少年ハリウッド」であれたのは、トミーやマッキー、テッシーの力でしょう。この二つのバランスが取れていた、というよりも、2クール間の活動の中で、この最良のバランスを目指していたのが少年ハリウッドだったのじゃないか、そしてその姿が結果的に生々しいアイドルとしての姿を生み出していたのではないかと思いました。
こういう風に考えれば考えるほど本当にアイドルとファンの関係は哲学に至るなーと思うわけなんですが、最終的に26話を見て感じたのは、アイドルは「キラキラ」なんだなってことでした。何言ってるのかわけわからないと思いますが、多分、このキラキラに惹かれてファンはファンになるのかもしれません。すいません、なんだかうまく締めることができませんでした。

 

 

 

 

*1:ZEN THE HOLLYWOOD。7人のメンバーで構成された、少ハリ連動型ユニット。いわば3次元界の少年ハリウッドです

*2:たとえば古くはきらレボ月島きらり starring 久住小春、そしてアイマスでもライブでは中の人が出てこられますが、それはあくまで「中の人」であって、全く別の人間がグループの概念だけを引き継いで活動するという形はありません。WUGも中の人連動型アイドルですね。

*3:しかしアニメ松田のだめっぷりはプロデューサー史に残るものだった