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少年ハリウッド 第20話「僕たちの延命」①ーアイドルとしての死ー

少年ハリウッド第20話は、マッキーファンはもちろんのこと、視聴者全体でかなり高評価のエピソードでした。以前の記事で、アイドルアニメ界での少ハリの立ち位置についてはお話ししたんですけれど、この20話がどういう意味を持っていたのか、様々な側面から書いていきたいと思います。

 

 ①ファンとアイドルの関係性

少年ハリウッドにおいて特筆すべきは「ファンとの関係性」を特に丁寧に描いていた点だと思います。つまり、アイドルという職業は他の様々な職業と同じように「需要と供給」で成り立っているということ。もっと言えば与えることばかりではなく、求められていることについても考えなければならないということです。

以前も書いたことですが、現実のアイドルファンは私たちドルオタ自身の想像を超えるほどに「シビア」です。アイドルという職業を辞めることよりも、アイドルオタクを辞めることの方がよほど簡単。アイドルという職業を始めることよりも、アイドルオタクを始めることの方が全然簡単です。アイドルは、歌、ダンス、トーク、笑顔、言葉、その他もろもろを提供することでファンからお金、言葉、笑顔、お金 、お金をもらうことができます。つまり、いくら素晴らしい供給物を生産しても、それに対して金銭を支払う人がいなければどうにもならないのです。そういった需要と供給の関係性において、ファンはアイドルを選ぶ側にあります。そしてその選択は、アイドルが生計を立てていることと釣り合わないほどに軽く行われてしまいがちです。どうしようもありませんがおそらくこれは事実です。アイドルという存在は、私たち移り気で気まぐれなファンの関心をいかにひきつけ、どれだけ長い間そばにいてもらうのかということを、どうしても考えなければならない存在なのです。
そこを的確に表わしていたのが、20話でのシャチョウとテッシーの会話でした。

 

「アイドルにとって一番恐ろしいものは時の流れと慣れです。時の流れは誰にも止められません。でも慣れることは止められる。そこにアイドルの寿命を延ばす鍵があるのです」
「センターを変えることがアイドルの寿命を延ばすと。ファンの方も飽きないですもんね」
「違うんです。センターが変わるという、そこに本質はないのです。そんなことを続けても、結局アイドルは消費されつづけ、ファンもいつかは飽きる。私が守りたいのは彼らです。彼らが今の状況に慣れてしまったら、アイドルとしての死が必ず訪れる」
「慣れから彼らを守ることで、初めてファンも守られると」

 

20話の話をおさらいしましょう。これまで、結成してからずっと少年ハリウッドのセンターはマッキーが務めていました。しかし、シャチョウから突然、センターの変更が告げられる。新しいセンターを決めるということで、少ハリのメンバーは各々センターを勝ち取るべく自分を高めアピールを始める、というのが話の前半の大まかな流れ。この会話は、そのアピール合戦がひと段落ついた時点で行われました。一体、なぜシャチョウは突然センターの変更を決定したのか。
センターという概念は最近になってAKBGの登場により一気に定着しましたが、アイドルグループの顔、いわば代表格としての存在はそれはそれは太古昔から存在していました。3人以上のアイドルグループなら、ほぼ確実に「センターらしきもの」がいると思います*1。ここでは「センター格の存在」と言った方がよいでしょうか。グループがステージで並ぶ必要がある以上、必ず真ん中に位置する人というのは決まってきます。グループの必然です。
シャチョウの発言を見てみましょう。この会話、どこをとってもなるほどと唸らずにはいられないのですが、私として最も注目したいのは「アイドルとしての死」という言葉。この話を聞いた時、私の頭には、ワンピースの有名な台詞が思い浮かびました。

 

「人はいつ死ぬと思う…? 心臓を銃で撃ち抜かれた時……違う。猛毒のキノコスープを飲んだ時……違う!!!…人に忘れられた時さ…!!!」

 

ものすごく有名なチョッパー編でのDr.ヒルルクの発言ですが、アイドルの死も似てるなと思いました。もちろん、アイドルという職業についている人間自体は忘れられたぐらいで死にません。心臓が止まるまで生き続けます。しかし、アイドルとしての彼らは、忘れられる、つまり飽きられた時点で、恐らく死んでしまいます。それが、アイドルとしての死。それほどに、アイドルというのは飽きられることを恐れているのです。
この事象を説明しようとすれば、とてもたくさんの方法があるでしょう。きっと、人によって答え方も違うと思います。それは、この問いに対する答えは、「なぜ人はアイドルを追い求めるのか」という問いへの答えともなるからです。そして、同時に「なぜ人はアイドルに飽きてしまうのか」という問いへの答えともなります。みなさんは、好きなアイドル、俳優、女優、モデル、歌手、バンド、キャラクター、それらに対して追い求めたいと思うほど好きになったことがありますか。そしてそれほどに追い求めていたのに、いつの間にかそのことにすら飽きてしまったことがありますか。それはなぜだったのでしょうか。きっと、この問いは、私たちのとても深い深い部分まで入りこんでくるものなのです。
*2

そこでシャチョウは言います。「守りたいのは彼ら」。つまり、アイドルそのものであるということを。

「忘れられること」がすなわち死なら、忘れられないためにはどうすればよいのか。ひとつには、関心を惹きつづけることなのでしょう。しかし、どうすれば人の関心を永遠に捉えつづけることができるのでしょうか。これは、先日から言っている「どうすれば売れるのか」という問いに対して答えがないのと一緒で、そんなことを叶える方程式があれば、世の中のアイドルは全員ヒットしてしまっているのです。

結局のところ、アイドル自身が常に新しくなくてはならない。シャチョウの出した結論はそうだったのではないかと思います。それが「慣れから彼らを守る」ということなのでしょう。シャチョウとテッシーの会話は、最後の方にもあります。

 

「彼らは今、一生に一度しか歌えない歌を歌っています。本当は毎日がそうなのに、人はすぐそれを忘れてしまう」
「今、それをあの子たちは思い出したんですね」
「慣れは人を狂わせる。私たちの仕事はアイドルである彼らをそこから守ることです」
「永遠にも守れたらどんなにいい事でしょう」

 

アイドル自身が常に自分を新しくする。そうすることで、ファンは「今日は前とは違う、新しい別のことが起きる」と思って会いにいく。「今日会いに行っても、前と同じことが起きる」と思えば、会いに行く気持ちよりも、会いにいくコストの方が勝ってしまうでしょう。そうして会いに行かなくなり、関心がなくなり、アイドルは死んでしまう。そしてこの時点で、アイドルだけでなく、アイドルのファンとしての自分も死んでしまっているのです。そこが、「慣れから彼らを守ることで、初めてファンも守られる」という発言の意味なのではないかと思います。

まとめていきましょう。アイドルは、ただ与え、求められるだけの存在ではない。求められ続けるという意味で、実はアイドルはあくまで「選ばれる立場」であるということ。想像以上に、アイドルの立場は弱い部分があるのです。そして、そのように弱い立場のアイドルは、ファンからの関心がなければ、アイドルとして容易に死んでしまう。アイドルはただ歌って、踊って、笑顔を振りまいているだけでは足りない。好かれ続け、求め続けられるために、常に努力をしつづけなければ実際の所ならない。そのために少年ハリウッドが求めたのが「常に新しい自分であり続けること」だったということです。

改めて、アイドルという存在が抱えているものの大きさ、多さ、複雑さに気づかされます。大変長くなってしまいましたので、今回はいったん「アイドル論」としての話を終えて、次回は同じ20話を「表現論」の立場から考えていきたいと思います。

*1:もちろんセンターだと明確に決めていないものも含めてです。ここでは、そのグループと言えば?と聞かれて思い浮かぶ人のことも指します

*2:私なりに答えを出そうとすれば、「アイドル」だから以外の何者でもないのかな、と思います。例えば、小学校の同級生、中高の同級生、もう何年も会っていないし、これからも能動的には会うことのない人たち。彼らは本当に生きているんでしょうか。きっと生きているでしょう。でも、もしかすれば不慮の事故で亡くなっているかもしれません。なぜなら、長い間会っていないからです。実際に会わなければ、その人が生きているのか死んでいるのかもわからない。では、なぜそもそも人は誰かと出会おうとするんでしょうか。その人に関心があるから、用件があるから、いっしょにいたいから。そんな気持ちももちろん必要です。だけれども、私たちが、誰かと会おうとするときに、この人に会いたいという気持ちだけで、連絡を取って、日取りを決めて、待ち合わせ場所を決めて、ご飯を食べる店を予約する。そこまでする人が何人いるでしょうか。もちろん、毎日会っている職場の人や、学校の友達なら、まだ可能でしょう。しかし、物理的に距離の離れた友達と能動的にコンタクトを取ることは、思った以上に労力と気持ちを要するもののはずです。アイドルもそんな人たちと同じです。物理的距離は、どれほど関心があっても、能動的にコンタクトを取ることへの枷となります。コンタクトを取る手間を惜しんででも、好きなアイドルに会いに行きたい。これは本当はものすごいことなのです。だからこそ、会いに行きたいという気持ちを持続させるためには相当な気力が必要となってくる。つまり、会いたい気持ちがほんの少しでも緩まってしまえば「コンタクトを取る手間」は想像以上の重荷となるのです。そうなれば待っているのは、「会わなくなることによる忘却」、つまりアイドルとしての死です。

ローカルヒーローのサービス精神

わたくしはお恥ずかしながらローカルヒーロー界に入って間もないんですけれども、昨晩ゼロスのツイッターであげられていたおはようボイスをきいて、なるほど、こういうことをするのか…!!!!と深夜ながらに大興奮してしまいました。

ヒーローが自分に向けてメッセージを届ける、というのは東映ヒーローでもままありますが、大方は子供向けのもの。このように、「大きなお友達」に向けてヒーローからボイスが届くというのは実はあまりなかったんじゃないかな?と考えさせられました。

しかし、ゼロスの敵は魅力的すぎますね。ヒーローショーを見た時も思ったのですが、敵がきちんとキャラ立ちしているうえに、どこか憎めない感じがあって、これも客との近さがなせる業なのかなと思いました。お客さんが近くにいるからこそ、あまりにも怖いキャラばかりが出せないんですよね。どうしようもない悪がいる、というよりは話せばわかるんじゃないかという余地が残っている方向なのかなと思いました。

また、テレビで見るようなヒーローとは違う立ち位置のローカルヒーロー。きっとアイデンティティも存在意義も異なるものなんだろうなあ、と考え出すと楽しそうです。

地球戦士ゼロス

先日は、地球戦士ゼロスに会いに行ってきました。特撮ご当地ヒーローというと、超神ネイガー琉神マブヤーが有名なのですけれども、私の推しは地球戦士ゼロスです。何よりもガワがかっこいい。警察官を連想させるような配色とスリムな造形、そして胸の光るランプが最高にかっこよすぎて、いつも通り子供に交じってにやにやと歓声を上げていました。

 

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こうして写真で見るとさらにかっこよいですね。テーマソングもアクションもむちゃくちゃかっこいいです。設定もしっかりしていて、最近はライバルが登場したようです。犯罪ゼロ、環境破壊ゼロ、公共マナー違反ゼロ、というテーマもいいです。ローカルヒーローには「派手さ」はないんですけれども、扱っているテーマがより身近な分、「本当にヒーローが近くにいる」感じがすごくあって、すごく貴重な存在だと思います。しかしローカルヒーローがこんなにかっこいいガワを作ってしまっていいんでしょうか。昨今の東映ライダーのガワでもここまでスタイリッシュなガワはなかったように思います。

 


地球戦士ゼロスショー 「第0話・前編」 - YouTube

 改めて特撮最高だと思いました。次はザクスが出ているショーも見てみたいです。ちなみに、握手会・撮影会にも年甲斐なく参加しましたが、勢い余って「ファンです!」と叫んでゼロスを困らせてしまいました。次回こそは冷静にファンであることを伝えたいと思います。

 

ファンという「バロメーター」②-少年ハリウッド第26話-

先日は、アイドルを「育てる」ということについて、アイドルゲームを題材にお話ししました。アイドルを育てたい。だけれども、それを必ずアイドルが育つ方法というのは現実の世界にはありません。もちろん、育てるということ自体もこれまた楽しいので、これはこれでアイドルゲームの魅力なんですよね。ということで、今回は予告通り、では「少年ハリウッド」というのはどういったアイドル作品だったのかについて考察して行きたいと思います。

前回言及したように、少ハリはゲームとは無縁の存在です。ソーシャルゲームも展開していませんし、もちろんハードゲームが原作でもありません。少ハリは橋口いくよ先生が書かれていた小説が原作で、メディア展開としては「小説×アニメ×ぜんハリ*1」を掲げています。こういった展開は、少なくとも昨今のアイドルアニメではかなり珍しいです。そもそも2次元のアイドルと3次元のアイドルを共存させるというのがかなりチャレンジングな試みです*2

ゲームと無縁、という点では全く無縁ではありませんがWUGもこちらの部類です。ですので少ハリとWUGはPとか春ちゃんみたいな「主観」になる存在がいないんですけれども、それ以上に「売れない」んですよね。ちゃんと言うと「売れるための方法が確立されてない」んです。

主観がないという点ではラブライブとかアイカツもそうなるんですけど、どちらかというと「売れる」というより「成長する」という方に主眼が置かれていて、「成長すれば売れる」みたいな図式が根底にはあるように思います。

でも少ハリもWUGも売れないんですよね。WUGは最初社長が逃げてダメなマネジがアヤしいプロデューサー*3を連れてきてと当初は全然売れませんでした。というか当初以降も大ヒットというわけにはいかず地道な仕事をやるしかなくて、最終的にはI1の作曲家がWUGに興味を持つことで、WUG自体は光明に一歩近づくことになりました。ここまでの道がものすごく長い。大変です。「成長すれば売れる」んじゃなくて「成長しなくては売れない」世界です。
少ハリはというと、15年前に大ヒットした少年ハリウッドを引き継いだ新生少年ハリウッドの物語なのですが、これまた売れない。1期まるまる売れてません。2期もバカ売れしてるわけでは決してありません。少ハリの転機は路上アカペラ自己紹介や地道な広報活動というのもあるのですが、初代少年ハリウッドの先輩からの口添え(バーター)によるところも非常に多いです。ダンスを頑張っても歌を頑張っても、先輩の口添えがなければ仕事ももらえないのです。WUGの世界でも、少ハリの世界でも「必ず売れる方程式」なんてもものは存在してません。ここは結構大きな違いかなと思います。

 これってどういうことなんでしょう。私は、「ファンはバロメーターじゃない」っていう風に思います。自分を擁護したい、という気持ちも正直ありますが、それでも、きっと「ファンになってもらう」って思ってるほど簡単なことではないんです。
WUGでは熱狂的なWUGファンの集団(といっても4,5人ほど)がいます。彼らはファミレスでWUGのステージを盛り上げるにはどうすればいいのかいつも会議しているんですけれども、周りからは白い目で見られます。毎日劇場公演をやっても、ファンの数が爆発的に増えるということはありませんし、一気にトップアイドルになるわけでもありません。「売れる」=「ファンが増える」と考えれば、「売れる」を達成するということがどれだけ大変なのかわかります。
少年ハリウッドのファンはもっと素直でもっと複雑なのかもしれません。私が呆然とした台詞が第21話「神は自らの言葉で語るのか」でのシャチョウの台詞です。

 

「アイドルってね、あるものもないものも全てを求められてしまう存在なのですよ。恋人になってほしい。家族になってほしい。慰めてほしい。元気にしてほしい。かっこよくあってほしい。かわいくあってほしい。素を見せてほしい。見せないでほしい。そばにいてほしい。遠い存在であってほしい。自分だけのもので、みんなのもの。もう、全てのつじつまが合わなくなってくるほど、求められて求められて、求められる存在なんです。」

 

私はこのセリフを聞いた時に、もう穴に引きこもってしまいたくなるほどの衝撃で、アイドルオタクって存在の業の深さに軽い絶望を覚えました。これは私的には本当にその通りで、特に素を見せてほしい、見せないでほしいとか自分だけのものでみんなのものとかあー普段からこういうこと思っとりますわーって感じです。多分このセリフでアイドルオタがアイドルに求めてることの半分以上はカバーできてると思います。「ファンになる」ってむちゃくちゃ簡単なように見えて、むちゃくちゃエネルギーを求められることだと実感しました。そうなんです。ファンってめちゃくちゃ面倒くさいんです。もう自分勝手に理想のアイドルの姿を作り上げるんです。いや、もちろん全員ではないし程度の差はありますが、少なくともファンになるということにはエゴイスティックな領域が含まれるとは思います。そんな面倒くさいファンをバロメーターのように数字で測るだけで終わらせることは、現実の世界ではできません。なぜならアイドルを選んでいるのはファン自身だからです。アイドルに言われてファンになっているわけではありません。こんな面倒くさいファンでも、ファンになってもらわなければ決してアイドルが売れることはできないのです。

ファンは増やすのは大変ですが、減るのは案外一瞬です。そして何よりもファンがファンであり続けることが最も大変です。アイドルはファンがいなければ輝くことはできませんし、ファンはアイドルがいなければ生きていけません(少し誇張しました)。つまり、持ちつ持たれつの関係なのです。当たり前のことを言ってると思われるかもしれませんが、実はファンとアイドルの関係を考えた時に一番難しいことなんじゃないかなと思います。

少ハリ26話は恐らく視聴者念願のライブを1話まるまる使って描いてくれるという時点で最高だったのですが、最後に行われたサプライズの演出。実際のステージでこんな映像が出たらと思うと、震えと涙が止まりませんでした。きっと古参ファンの方は膝から崩れ落ちていることでしょう。またそこでのマッキーとトミーの流した清らかな涙。本当に、理屈とか感情とかを超えて、もうそういうんじゃない、身体の空っぽな部分から湧き出てきたかのような涙がすごすぎました。ファンあっての少年ハリウッド。そして、少年ハリウッドあってのファン。少ハリは、ファンをバロメーターとして扱うのでなく、迎合しすぎることもなく、描いていました。そこで大きな役割を買っていたのがシュンやキラだと思います。アイドルをビジネスと考え、ファンにもビジネスとして対応する。ここではファンはビジネスライクな顧客です。それでも「ファンあっての少年ハリウッド」であれたのは、トミーやマッキー、テッシーの力でしょう。この二つのバランスが取れていた、というよりも、2クール間の活動の中で、この最良のバランスを目指していたのが少年ハリウッドだったのじゃないか、そしてその姿が結果的に生々しいアイドルとしての姿を生み出していたのではないかと思いました。
こういう風に考えれば考えるほど本当にアイドルとファンの関係は哲学に至るなーと思うわけなんですが、最終的に26話を見て感じたのは、アイドルは「キラキラ」なんだなってことでした。何言ってるのかわけわからないと思いますが、多分、このキラキラに惹かれてファンはファンになるのかもしれません。すいません、なんだかうまく締めることができませんでした。

 

 

 

 

*1:ZEN THE HOLLYWOOD。7人のメンバーで構成された、少ハリ連動型ユニット。いわば3次元界の少年ハリウッドです

*2:たとえば古くはきらレボ月島きらり starring 久住小春、そしてアイマスでもライブでは中の人が出てこられますが、それはあくまで「中の人」であって、全く別の人間がグループの概念だけを引き継いで活動するという形はありません。WUGも中の人連動型アイドルですね。

*3:しかしアニメ松田のだめっぷりはプロデューサー史に残るものだった

ファンという「バロメーター」①

世の中に出ているアイドルを題材とした二次元作品、と言われると、何が思い浮かぶでしょうか。実際の所、アイマス*1ラブライブうたプリ*2あたりが最初に出てくるかと思います。アイカツ、プリパラ、マジフォー*3、ときレス*4も浮かぶ人が多いかもしれません。そして、もしかすればそのあとにWUG*5や少ハリ*6の名前を浮かべる人もいるでしょう。昨今はアイドル戦国時代と呼ばれ、いわゆる「三次元アイドル」は男性も女性も群雄割拠の時代ですが、それと比較すると「二次元アイドル」は思ったほど少ないという印象を受けます。*7

 ここで今挙げた「二次元アイドル作品」をザーッと見てみると、「ゲームに関わる作品」が非常に多いことに気が付きます。アイマスはアーケードから始まり、ハードゲームからアニメへ。うたプリもポータブルゲームからアニメへ。アイカツ、プリパラはアーケードとの連動アニメ。ラブライブも、スクフェスとアニメがうまく連動していました。マジフォー、ときレスはスマホゲームからCDデビュー。これらはゲームから生まれた、ないしゲームがアイドル人気を押し上げた作品と考えられるでしょう。というと、この路線にかちりとはまらない作品が二つ。比較的外れていたのがWUG*8ほぼ完全に外れていたのが少ハリです。

どうしてこれほど「アイドル」と「ゲーム」は密接にかかわりあっているのでしょうか?二次元アイドルの先駆け、アイマスを例に挙げて考えてみましょう。

アイマスは、アーケード時代から「育てる」ゲームでした。レッスンをして、オーディションを受け、仕事を獲得し、ファンを増やす。その一連の流れを、私たち「プレイヤー」がプロデュースして、自分の応援しているアイドルをトップアイドルにすることが目的です。

この「育てる」は三次元アイドルでもそうで、AKBGなどはわかりやすい例ですが*9、ジャニーズJrやジュノンボーイにも見られることだと思います。*10どうやら、「育てる」というアクションはアイドルにとって不可分なもののようです。

しかし、「育てる」という行為の主観は誰でしょうか。それはおそらく私たちプレイヤーです。アイマスならP、うたプリなら作曲家、それ以外の作品も明確に名前がついていなくとも彼、彼女の生きているのとは別の世界の住人が、彼、彼女をトップアイドルに「育てて」いるのです。

そして、「育てる」とはそもそもどういうアクションなのでしょうか。ゲームには、ある程度のゴールがあります。ボスを倒す、や街を平和にする、といったものです。アイドルゲームのほとんどは「アイドルをトップアイドルにする」ことが目的でしょう。ではその目的をどのようにして達成するのか?ここで忘れてはいけないのは、これが「ゲーム」だということです。ゲームの目的、それはすなわち「クリア」することにほかなりません。ゲームはクリアできなければならないので「トップアイドルになるためには何かしらの方法がなければならない」ということになります。そこで方法についてそれぞれのゲームで決まりごとがあり、私たちはその決まりごとの範囲の中で、いかにして上手にアイドルを成長させるのかということを楽しんでいるわけです。例えばレッスンをして能力値を上げる、スタミナを使って営業活動をする、ガチャを引いて新しく強いアイドルをスカウトするという決まり事です。逆に言えば、この決まりごとに従えば、自ずとクリアに近づいていくということになります。

さて、ここで表題について考えてみましょう。このような世界でファンというのは一種の「バロメーター」であることが多いです。つまり、アイドルがどれだけ成長したのか、どれだけクリアに近づいているのかを示す指標です。これについては、おそらく現実でも間違いはないでしょう。ファンの多さは、確かにアイドルの人気を測る一つの指標となりえます。

ですが、ゲームでファンが増える過程を考えてみてください。レッスンをし、営業活動に出て、ライブを成功させる。私たちにとっては日々のなんてことのない活動の端々でファンの数はこつこつと増え続けています。ファンとは、こんなに簡単に増えるものでしょうか? もちろん、いいパフォーマンスをすればファンは増えるでしょう。しかしそれでは世の中のいいパフォーマンスをしつづけているアイドルは全てトップアイドルになっているはずです。ファンが増えるときはいいパフォーマンスをした時ですが、いいパフォーマンスが必ずファンの増加に結び付くわけではないのです。

先ほどの話に戻りましょう。必ずファンの増える必勝法が存在していないように、必ずトップアイドルになる方法は現実の世界には存在していません。つまり、この決まりごとに従えば必ずトップアイドルになれるという仕組みでは残念なことにないのです。いくらレッスンをしても、営業に出ても、リズムゲームでいい成績をとっても、ファンが増えないことはいくらだってあります。そう意味で、アイドルゲームは私たちの「育てたい」という欲求には非常にマッチしていますが、実際のアイドルとは少し立ち位置が違うのではないかということがわかるかと思います。

思ったより長くなったので続きは明日に。次は、アイドルゲームと実際のアイドルの違いについてもう少し深く考え、本日最終回を迎えた少ハリについて語っていきたいと思います。

*1:THE IDOLM@STER

*2:うたの☆プリンスさまっ♪

*3:MARGINAL#4

*4:ときめきレストラン。今回は内部ユニット全体を指す

*5:Wake Up, Girls!

*6:少年ハリウッド-HOLLY STAGE FOR 49,50-

*7:二次元の花形「アニメ」で比較的成功した部類のものを挙げても10作品前後でしょうか。対して三次元はジャニーズだけで10グループ以上が存在しています。もちろん「CDデビューのみ」というくくりでとらえるとぐんと数は上がりますが、ご当地インディーズアイドルまで含めるとこちらはぐぐぐぐぐんと数が上がります。

Category:日本のアイドルグループ - Wikipedia 

Category:アイドルを題材としたアニメ作品 - Wikipedia

*8:WUGはソーシャルゲームと連動していましたが大きな影響を生み出すことはできなかったように思います

*9:初期の劇場公演の徹底は、成長過程のアイドルをそのままステージに上げてファンと共に育てていく、育てたいと思わせるものでした

*10:こちらはより「先に知っておきたい」という感覚が強いかとは思いますが